ライブ日記とは別で観光したことを記載してまたくなり、赴くまま日記にしました。もちろん今後はライブ抜きで、観光目的で遊びに行ったことも書いてみようかと思います。不定期更新です。
11/9〜11/10福井へ行ってきました。
メインはGLAYのライブだったんですが、それ以外にちらほら見たので少し報告。
【11/9】
関西から福井へ向かい、降り立った福井駅。
電車で福井へ来たのは初めてである。と言っても福井自体二度目。
この日は想像したよりも暖かめ。
でも天気は晴れてるのにどんよりしたような…また晴れたような…。北陸の晴れてるのにどんよりというのがなんとなくわかったような気がする。
ライブ会場のサンドーム福井へ行く方法が2つあり、行きは福井鉄道(路面電車)にて。
福井鉄道はバス事業もやっており、なんならバス事業の売上がメイン。昔は鉄道は鯖浦線、南越線(南越谷みたいですね)があったけど、現在は福武線のみ。
サンドーム西駅へ着くと無人駅。2両編成。
単線。線路は続くよどこまでも。Stand by Meである。
歩いて行きたくなる。
枕木もある。
帰りはJR鯖江駅へ。
美味しそうな駅名である🐟
鯖江市といえば、メガネのフレーム生産国内シェア90%以上の市。次回はメガネミュージアムも行きたいものです。
【11/10】
朝早く起き、神社へ
①足羽神社(あすわじんじゃ)
陰陽座のタイトル並みに読めない。
継体天皇(けいたいてんのう)、男大迹王(をほどのおおきみ)、坐摩神(いかすりのかみ)と読むらしい。
継体天皇=男大迹王です。
男大迹王が越前国で過ごしているときのおはなし。
越前平野の大治水事業をしたとき、朝廷に祀られている大宮地之霊(坐摩神)を越前国が見渡せる足羽山に勧請し、安全を祈願したのが足羽神社の起源、とのこと。
その頃の越前国は沼地同然だったらしい。
現在の九頭竜川、足羽川、日野川の3大川を造り、三国に水門を開き、水を海へ流し、越前平野が完成。そこから、住居を定めたり、産業の発達、海川交易等発展していった様。産業興隆の道を男大迹王が教えたので、越前開闢の御祖神と称え、崇められていたと。
すげえな、
越前国のイノヴェイタァァア!!!
ドゥドゥーー
https://m.youtube.com/watch?v=1qW14cXc2Vw
川を流したり、水の流れというのはやはり産業の発達や文化興隆には不可欠なんでしょうね。
その後、第26代天皇として即位される為、越前から大和へ行く時、「末永くこの国を守り神とならん」と言い、自らの生霊を宮に鎮めたそうな。自分の生霊を鎮めるってどうやるんだろう。パワーゲイザーみたいな感じかな…。
ちなみに、足羽山に勧請した坐摩神は
福井神
の五柱の神の総称。
行くルートが徒歩だったのと、少し間違えたのかまあまあ急な階段であがるだけで息が切れた。
民家の中を通る。
まだ上がる。
到着。鳥居が見える。
境内の中に、天壌無窮碑というものがあった。
明治天皇即位礼に参列した福井藩士 由利公正が皇室の安泰を祈った碑。
これは境内にはないけど、橋を散歩していたら由利さんの像があった。
御朱印をいただきました。ありがとうございます。
周りが沼地だったから山上に誘ったのを身を以て体感した気がします。階段が急だっただけで距離としては大したことなかったかもしれないけど。
越前国の繁栄に繋げた継体天皇の功績と祈りを感じる神社でした。
②毛谷黒竜神社(けやくろたつじんじゃ)
主祭神:継体天皇(男大迹王)
高龗神(たかおがみ)
闇龗神(くらおがみ)
引き続き、継体天皇のターン。
日野川、足羽川、黒龍川の三大河の治水工事をし、越前平野を拓かれた際、北陸随一の大河であった黒龍川(九頭竜川)の守護と国土安穏、万民守護のため高屋郷黒龍村(舟橋)毛谷の杜に高龗神(黒龍大神)、闇龗神(白龍大神)の二柱の水神が祀られ、後に継体天皇が合祀された神社。
九頭龍川が暴れ大河で、だいぶアバレンジャーだったみたいです。
鳥居が見えた瞬間、ピアノのイントロが流れてくる。
https://m.youtube.com/watch?v=5MdvrkraP1U
暴れ大河だから九頭龍って名前でもあるのかな。もしそうなら、それは平穏であるよう祈りたくもなる。
また、高龗神(黒龍大神)は天地の初めから国土を守護してきた四方位を象徴する四柱の神々「四大明神」の一柱を祀るものとされ、日本の4大明神の一つとなったそう。
東西南北に神社、大社があり、
東:常陸の鹿島大明神(鹿島神宮)
西:安芸の厳島大明神(厳島神社)
南:紀伊の熊野大明神(熊野三山)
北:越前の黒龍大明神(毛谷黒龍神社)
全部行ってみたい…!
御朱印がまた力がみなぎる龍でした。ありがとうございます。
ふらっと行ったけど、すごいところであった。
今度は天皇ではなく、武将を祀っている。足羽山の敷地にある神社。
新田義貞公は鎌倉時代後期〜南北朝時代の武将。鎌倉幕府を滅亡に追い込み、後醍醐天皇の建武新政樹立の立役者の一人。
すごいことをしている。
その後、後醍醐天皇の命で、建武政権に反旗を翻した足利尊氏と転戦。
最終、越前藤島にて戦死…。
時は流れ、1870年 福井知藩事である松平茂昭が、新田義貞公の兜が発見された場所に新田塚を建て、これが1876年に藤島神社と名付けられたとのこと。
鳥居があり、そこから段の高い石段をのぼる。
またはあはあ言いながら辿り着くと鳥居。
新田義貞公 決戦の図が奉献されていた。
ここも両開きの御朱印をいただきました。ありがとうございます。
8:50にホテルを出て、10:00までに見終わりたかったのでバタバタでしたが、ほんの少し福井の歴史に触れられた気がしました。3社廻れると思ってなかったのでだいぶ満足です。楽しかった!
地形には歴史があり、地形を生かした生活から文化興隆、産業発展し、歴史が作られる。
今の姿を見て、過去からの時の流れを想像するのは面白いですね。
もし何かが掛け違っていれば、
もっと策謀的であれば、
なにか違う歴史が存在したのかもしれない。もしもはないとしても。
そんなことを思いながらWill Be Kingを聴いてお別れです。